2012年5月30日水曜日

ご近所の人でさえ知らなかったお寺 湖東三十三所(野洲郡三十三所)現地探訪_6


順番通りでなく気になるところから探索中の湖東三十三所(野洲郡三十三所)ですが、今回は探し回って、ようやく見つけることになったのは第32番札所の寶覺寺(宝覚寺)さんです。


大きな地図で見る

グーグルマップにも載っているので(地図では「宝学寺」になっている)何の問題もないと思っていたのですが・・・。


守山市立田町は古くからある集落なので、道路が狭いため、近くのセブンイレブン(国道477号線沿い)から歩いてきます。旧野洲川跡の河川敷から、集落南側から迂回すると新宮神社が見えてきます。


■新宮神社 (シングウ)
【御祭神】経津主神
【御神紋】左三ツ巴
【御由緒】正暦元年(990年)明富荘司恵美元朝が下総国香取神社に詣で、神霊を受け帰国して、一社を建立し、今日に至ったと伝えられている。(滋賀県神社庁HPより)
 集落の入口には「通り抜け禁止」と書かれている通り、集落全体にすれ違いが難しく蛇行した道が多いです。
 時間の都合で確認出来なかったのですが、新宮神社の東にある杜
帰ってから地図で確認してみると「鎮守杜」となっている。(国土地理院の地形図には表示なし)
場所的に「新宮神社」と「鹿嶋神社」の間にあり、新宮神社の杜と続いているように見えるので、境内社か境外社のどちらかだろう。滋賀県の神社本庁のHPには、 この新宮神社には境内社に天照大神社があるとのことなので、また確認してみようと思う。
ちなみに新宮神社の祭神は経津主神とのことであるが、経津主神は、鹿嶋神社の建御雷神は対として祀られるという。
滋賀県の神社本庁のHPには、その守山市立田町の鹿嶋神社は記載されていないが、 意味のある存在であることが判る。合わせて後日確認しようと思う。
立田集落センター
 立田集落センターの東側の交差点(この集落内で唯一道路にセンターラインがある)
墓地が見えたので、地図の上の「宝学寺」に、ほぼ到着したに思えた。
東を見たところ。右に見える杜の中に第32番札所の寶覺寺(宝覚寺)さんがあるのだが、道路の前面に建つ建物に隠れていてわからない。さらに杜は地図上では「鹿嶋神社」になっているので、画面左側の墓地を見る位置に本堂があるのだろうと思った。

 しかし墓地の見渡す位置に行ってみても何も無い。(実は、この風景の背後が目的のお寺さんなのだが、工務店の資材置き場の「すき間」ように見えるため、まさかそれが参道とは思えなかった)
 立田集落センター近くの交差点から北西に行ったところにある石碑
野洲川の河川工事に関する石碑なので、お寺とは関係なかった。
 墓地からは北側の位置。庭木を育てられているような場所で、お寺の痕跡も無い。
 墓地の東側。入り込んだ通路の場所と似ているのでここかな?と思ったが民家で行き止まり。
自力で見つかると思ったが、墓地の周囲を歩き回っても、お堂などが見当たらない。
ご近所の人に聞けば何かわかると思い、地図を見てもらいながら、寶覺寺(宝覚寺)さんについて聞いてみた。しかし神社は杜の方を見て、「あれが新宮さんで、あれが鹿嶋さん、お寺は聞いた事がないので、かなりの年配の方に尋ねてもらうとわかるかも」と申し訳なさそうな答えを頂き、お礼を言って「神宮寺かも?」と思い、墓地の南側へと進んだ。
すると、工務店の建物脇に資材置き場か何かと思っていた草むらに何やら文字の刻んだ石が・・・。
「○○○…入門」
入門って、前にもどこかで見た石碑・・・。
そうだ。守山駅の近くでマンションに姿を変えた安楽寺跡(?)に建っていた『不許葷酒入山門』(クンシュサンモンニイルヲユルサズ)=禅宗の寺に置かれてる石碑だ。
ここが探していた第32番札所の寶覺寺(宝覚寺)さんの入口なんだ。
だけど、これまで数々見てきた禅寺とは違う様子。
ご近所に住んでいる人ですら、入ったこともないような空間。(わからないはずです)
奥に光が見えなければ、この石碑だけが寺跡だと解釈して帰るところでした。
 普通の人は入ってきません。眩しい太陽が出ていても、ここだけは世界が違います。
・・・。
見つけた喜びよりも、ちょっと哀しくもなる感じです。


 ブレてしまいましたが、雰囲気は、それほど暗いです。
 寶覺寺の文字が見えます。
お堂の 隣には個人の方の歴代のお墓があり、花も新しく供えられていました。
お墓を掃除されたと思われる布もまだ濡れていたので、つい先ほど、お参りをされていたと思います。
花が添えられていたことで、ほっとした思いがしました。

2012年5月28日月曜日

動画のテスト中

現在、悪戦苦闘しながらホームページの作成中ですが、TMPGEnc Video Mastering Works 5で静止画からスライドショーに変換。音楽はYoutubeで後から付け加えられるので、それにて実験。
自動的に広告がくっついてくるのが邪魔なのと、音楽の長さに合わないと突然スライドショーの長さでバッサリ音切れ。


うーん 色々気にすると時間が掛かる。。。

2012年5月26日土曜日

グーグルでホームページを作成中ですが、ストレスが溜まる

グーグルでホームページを作る場合、写真や動画、地図などの情報管理が一括に出来て、HTMLを知らなくても「表(ひょう)」でレイアウト出来れば、まとまった情報整理に便利ですが、便利とは逆に、リソースが足らないエラーが頻発し、少し文字を揃えたりなど、微調整なことをするだけでも


編集作業が止まっています。
まるでマッキントッシュがG3以前だった時代の

爆弾エラーと同じで、頭で考えるより先に作業が止まっています。
止まるわ、困るわ、進まないわでエラー多すぎに、うんざりしてきました。

2012年5月25日金曜日

安養寺廃寺石塔 湖東三十三所(野洲郡三十三所)現地探訪_5

所在地がわかりにくい札所(跡)のひとつである近江八幡市の安養寺跡(廃寺)
日本全国に「安養寺」と名の付くお寺は多く、滋賀県内だけでも、「立木さん」の名で親しまれ瀬田川のそばにある「立木山寺=立木観音=安養寺」。また栗東ICに近く金勝寺二十五別院の一つである栗東の安養寺「東方山 安養寺」などがあります。
ネット検索で、こうした同名は絞り込みすぎると情報が乏しくなり、大雑把過ぎると多すぎて探しにくく、いつも悩むのですが、調べて行くと、近江八幡市の安養寺跡(廃寺)は、現在、石塔だけが残っているということで、場所は、国道477号線沿いの水田近くに建っているということですが、番地までの情報はわかりませんでした。
また「「国道477号線」と言えば、酷道マニアなどには、おなじみの「寄せ集め国道」。道路の複雑さでは全国屈指の国道沿いにあるということですが・・・。


この写真を見て、一瞬でわかる人は凄いです。
酷道マニアの人でさえ、国道とは思えない狭い道や、市道と国道の見分けの付かない分岐路に気をとられ、気がついた人はいないと思うほどの場所です。
(仮に気がついても、何も知らないと、人様のお庭の石塔にしか見えません)


これが安養寺(跡)廃寺の石塔です。
そして何気なく道路沿いに見えたのが、国の重要文化財である鎌倉時代期の石造五重塔です。
(全く重要とは思えない場所にあります。)
水田と道路との間の傾斜面に置かれ、駐車場もありません。
(駐車場を作ると盗まれるので、わざと解り難くもしてあるようです)


たまたま車で通りかかった人も、「何かな?」と近づいて行くと「ポリテクカレッジ滋賀」の道路看板に隠れる仕組み(?)です。(分岐路からは離れていて不自然です・・・)



もちろん道路からは階段も無く、土の斜面を滑り降りるような場所にあるので、女性の方でハイヒールを履いていたら田んぼに転げ落ちるような場所にあります。


 ■安養寺跡五重塔

国の重要文化財
寛元4年(1246)相輪の一部が欠失するので現高417.5cm。
基礎四面の格狭間内に掘り出される三茎蓮華は近江式装飾文最古の遺例である。
塔身には顕教系四仏の像容を刻出し、南面左側に「寛元二二」が辛うじて見える。
(湖国と文化79・春号(平成9年3月31日発行)の特集:近江の宗教石造文化より抜粋)


印相についてはwikipediaはこちら


写真では大きさが伝わらないのですが、実際に4mもある石造の五重塔を見ると迫力が違います。間近で見ることができるので感動で見とれてしまいます。
私は石造が何か怖い感じがして、(私の菩提寺が二度も焼失して丸焦げの五輪塔を見ていたからなのか)苦手なのですが、ここの石造は場所が明るいことがあって癒される感じがしました。
なおツツジの植え込みに隠れて足元にも石仏が並べてあるので蹴らないように注意が必要です。


石造好きな人たちが、ここに来られた写真をネットを探すと色々と出てきますが、草むらに埋もれていることもあります。4m四方程度の水田のすぐ隣の場所ですが、最近に手入れをされたようで綺麗になっていました。

2012年5月24日木曜日

江珍寺?江瀧寺?江龍寺?はどこに・・・(後編)湖東三十三所(野洲郡三十三所)現地探訪_4

場所がわかりましたが、次に気になるのは、お寺の名前です。
江珍寺?江瀧寺?江龍寺?の、どの読み方が正しいのでしょうか?
もう一度説明書きを確認してみましょう。
江龍寺」とのことですね。
また念のため、周りの古い遺物を探してみます。
何かしらの銘文が刻まれているようなのですが読めませんでした。
そして、その右手にあるのが、宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。
何気なく置かれています。また盛り土?の部分に乗っているため傾いています。
しかし、これがナント、石仏や石塔を研究されている方のHPによれば、滋賀県の中で在銘宝篋印塔で最古の紀年銘を持つ石塔だそうです。
個人的な感想なのですが、盗まれそうになって放置されたのじゃないかな?と思います。
それというのも置かれ方があまりに不自然であり、少し離れたところではあるのですが、草津市の芦浦観音寺前にある安国寺跡からも宝篋印塔が盗まれたことがあるそうで、(今は拝観は申し込み制の芦浦観音寺の中に保管されました)あまりにも、ぞんざいな扱いになっています。

2012年5月23日水曜日

江珍寺?江瀧寺?江龍寺?はどこに・・・(前編)湖東三十三所(野洲郡三十三所)現地探訪_3

資料を集め、複数の資料から整合作業をしていると、同じ寺の名前なら問題はないのですが、資料それぞれ違った名前のお寺になってしまうと、どれが該当するお寺なのか判らなくなります。さらに地名が詳しく書かれていないと、現存しているのかすら判断できなくなります。
今回、現地調査したのは、旧中主町(現在は野洲市)の比江地区の観音様です。

文献によって、「江珍寺」「江瀧寺」「江龍寺」と呼び方が違い、第21番札所で比江にある寺までは判るのですが、どこにあって、現存しているのか、どうかわかりませんでした。


比江地区の場所は、野洲川の北東に位置し、地区の南にある「長澤神社」は、大宝3年(703年)創建(「長澤神社表録」)された古い歴史のある地区であることが判ります。
地図をもう少し拡大していくと・・・
最大拡大のひとつ手前の時に、地区の中央付近にある公民館のそばに「十一面観世音菩薩」の文字が現われます。  
「十一面観世音菩薩」は巨大観音像だったりするのでしょうか?
しかしそれなら、かなり有名なはずです。詳細な場所もわかるでしょう。
色々な想像が膨らみますが、おそらく「江珍寺」「江瀧寺」「江龍寺」は、観音像と何らかの関係があると思います。
手がかりがなければ、また調べればよいし、とにかく現地調査です。
 比江の自治会館です。集落が大きいので、自治会館も大きいです。
 そして左を見ると比江 老人憩いの家です。
道路は古い集落なので、すれ違いの出来ない部分もところどころにあり、細い路地なんかに迷い込んだら涙目になること間違いの無いところなので、車で来られる事を勧められないのですが、駅から離れているので、車ぐらいしか交通手段のないようなところです。
コミュニティーバスも通りますが、野洲駅からは2時間に1本のようです。
(旧)中主町そのものが迷路のような複雑なところなので、このあたりに来られる時は、十分に地図を確認されてから来られた方が良いです。
しかも目印の無いところを曲がるなどするので、地元の人に道を聞いても、説明に困られることもあります。
なんとかここに来られても、車を停められそうなのは、ここぐらいしかありません。
失礼して邪魔にならないところに車を置かしてもらい素早く 「十一面観世音菩薩」を探します。
位置的には、上の写真の老人憩いの家の裏手側のようですが、一旦道路に出ます。

比江防災棟が、道路からは目印になります。万一、地区で火災が発生した時、重要な場所になります。
比江防災棟の横がすぐ二又路です。向かって右の方に進みます。
 一軒おいて、すぐに何やら、それらしきものが見えました。
 『郡西国廿一番 十一面観世音菩薩』の立派な石碑です。
郡西国廿一番とは、湖東三十三ヶ所(野洲栗本三十三所)のことで、廿一番=21番なので、ここが探している、比江の観音様の地であることが判りました。
すると、この山門の奥に、いよいよ観音様が居られることになります。
その前に、この石碑の裏を見てみます。
「昭和三年二月建之 御大典紀念」=昭和天皇の御即位のお祝いをして建てた記念碑ということです。
ちなみに帰ってから調べたのですが、昭和天皇の御即位の時、この近くの野洲郡三上村で、大嘗祭(だいじょうさい)のとき、悠紀の神饌(しんせん)とする穀物を作る田が選ばれたとのことで、大変な栄誉あることだと、野洲郡あげての大祝賀だったと思われます。
また湖東三十三所も、昭和初期までは少なくとも続いていた事が判ります。
そして、山門をくぐると、地図にあった「十一面観世音菩薩」です。
どういう形で観音様が居られるのか期待が膨らみます。
 「観音様・・・。」
やはり巨大観音像ではありませんでした。
というか、先に見えるのは畑ですよね・・・。
「あれ?」やはり何もありません。
だけど、何やら広場のような場所があるようです。
広場です・・・。「えーと、観音様は・・・?」
 木の陰に小さな建物?(お堂?)が・・・。
そして説明の書かれたものが。
 木造十一面観音立像の説明です。
調べてみると、
<特別陳列> 仏 教 美 術 と 信 仰
平成22年1月5日(火)~2月2日(火)
野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)

2年前に公開されていたようです。